ようやく新しい生活に慣れて来たかな、というところです。少し時間が出来るとびおらを奏きます。もう少し時間があると絵やブログに回せるのですけど・・・なんとかならんかなぁ。  by 村尾 素

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びおらのCD
カテゴリ:みちくさ( 5 )
梅雨の前に
梅雨のはしりというのだろうか、雨がちの空模様が続いている。今日も朝から曇り、昼過ぎにはまた降り出すといった按配。きのうは晴れていたけれど、じんわりと汗ばむ陽気だった。梅雨の気配濃厚。

湿気が多くなってくると、普段感じていなかったにおいに気づかされて、ちょっと驚くことがある。駅に向かう階段の両側はかなり草ぼうぼうの藪なのだが、今朝そこを降りているとき、木と草々と土のにおいの入り混じったなんともいえないにおい、青々とした草いきれとはまた違う、もっと濃厚で雑然としたむっとするにおいに、そういえば小さいころこれと同じような・・・と家の隣にあった空き地の記憶が突然蘇った。



こんなときは必ず雨になる。

降り出してしまうと、においはごちゃごちゃになり、どれがどのにおいともつかず、ただ、雨のにおいになる。



今朝は、朝起きてすぐに野鳥の声を聞いた。あれはたぶんキビダキだろうと思う。まだほの暗い静けさのなか、ほんの三、四声響き渡るのを聞いただけなのに、なんて気分がすっきりするのだろう。まるで身体の何かが呼び覚まされたみたいな清々しさは職場でも一日続き、何時間も経っている今になっても、その声は耳に残っているし、身体にも感覚が残っている。

そういえば去年の夏、ヒグラシを聞いたときもそうだった。あれは夕刻だったけれど。

蘇る記憶がここにも。



実山椒を買って帰りました。湯通しして冷凍しておき、煮魚などに少しずつ使います。
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by muraom | 2005-06-02 23:34 | みちくさ
青梅
今日から6月。店頭に山のように青梅が積み上げられているのを見て、梅雨が間近なのをあらためて知らされる。それにしてもなんという鮮やかな色なのだろう。うっすらと産毛が生えて、形がまたとても愛らしい。今年は諦めたはずの梅干漬けなのに、いつのまにか、どうにか時間を作れないかなぁと考え始めている。

というのも、梅仕事は梅雨の間の楽しみであるばかりでなく、夏を迎える準備でもあるからだ。面倒ではあるけれど、この仕事のおかげで、何とはなく、夏を迎える区切りがついていたのかもしれない。大掃除のように、季節を肌で感じ、心身ともにモードを切り替える、節目の作業なのだ。(そういえば大掃除からもう半年にもなる!)

節目の仕事や行事、今年はそのうちいくつ出来るだろうか。


梅漬けは、やはり今年は見送ろう。来年こそは漬けられるように、その余裕ができるようにと願いつつ、今は自分を充実させるべく励むことにする。無理は禁物。でも残念。
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by muraom | 2005-06-01 22:50 | みちくさ
そっと
フィリピンの旧日本兵のこと、大勢の報道関係者が手ぶらで帰る羽目になって、ちょっと安心した。うっかり現れようものならテレビや何かの餌食になってしまいそうで、大使館のひとが彼らのプライバシーを守るべく努力してくれるのかなどうかなと内心危ぶんでいたのだ。

しかし同時に、もしどこかに暮らして、郷里の土を踏みたいと望んでおられるのなら、誰にも何にも煩わされることなく、どうかそっとその願いが叶うように、とも思う。

報道の自由やら知る権利やら難しいことは知らない、自分がされて嫌なことを、ひとがされるのは見たくない。
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by muraom | 2005-05-31 22:57 | みちくさ
慣れ
勤めに行く日は朝5時半に起きる。以前の夜更かしの自分には、考えもつかなかったような時刻だ。

最初はつらかった。「起きそこなったら大変」と思っているから、気が休まらない。何度も目が覚めてしまう。気が張っているからなんとか日中しのいでいるようなものの、三日も続くとやはり持たない。

ところがうまくしたもので、そのころになると身体が慣れて来るのか、夜ぐっすり寝て、朝ちゃんと起きられるようになる。まことに習慣とは有難いものだ。



きのうのテレビの話も、見ない習慣ができているのだろうと思う。「見る習慣」というものが存在するのと同じように、「見ない習慣」というものがあって何の不思議もない。

ことはテレビに限らず、食べ物、着る物にせよ洗面や入浴にせよ、生活というものは何によらず習慣に支配されている部分が大きい。それだからこそ、毎日を当たり前のように過ごしていけるのだろう。何でもいちいち考えなくては出来なかったら、何もかもオオゴトになってしまう。

しかしだからこそ、逆に、ときには自分の習慣を眺めてみるのもいいのではないかと思う。それは自分の暮らしを眺め直すことにもなるだろう。当たり前のようにしていることが、ほんとうに当たり前のことなのか、そういうことを考えてみるのは決して無駄にはならないはずだと思う。

流れていってしまう日々の生活の、ほんのささやかな模様替えをする。習慣を変えるのは大変だけれど、三日もあれば大抵のことはだいじょうぶ。あるいは、考えた末まったく何も変わらなかったしても、それで、なんとなく納得して気分よく暮らしていけるような気がします。何より元手要らずです。
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by muraom | 2005-05-30 22:49 | みちくさ
踊る阿呆に見る阿呆
テレビを見なくなってもう5、6年になる。はじめのころはそれでも、ぜひ見たい番組のビデオは撮ったりしていたのだが、いちいち番組表をチェックして録画をセットするのが面倒になり、そうするうちにビデオが故障したりして、それすらも止めてしまった。今では、ほんのときおりインターネットで番組表を見て、思い出したように、時によると何ヶ月も先だったりする番組の録画予約をひとつするかしないか程度だから、もうほとんど見ていないといってよいと思う。

それで今まで何の不都合もなかったので何とも思っていなかったせいか、ついこの前、「どうして見ないの?」と不思議がられたとき咄嗟に返答につまってしまった。

考えてみると、余暇の過ごし方として、「テレビを見る/見ない」を選ぶのは例えば「プロ野球を見る/見ない」とは違っており、むしろ「クラシック音楽を聴く/聴かない」というのと似ているのかもしれない。むろん、クラシック音楽の場合は聴く方が不思議がられるわけで、つまりは多数/少数ということ、テレビを見ないのは少数側なので珍しがられた、と推測したまではいいけれど、そうだ、見ないのはなぜだろうとあらためて考える。

今は忙しくて論外としても、以前もっと時間のあるときも見ていなかったのはおそらく、結局「他にすることがあったから」に尽きるように思う。していたのは主に、PCの勉強、ブログ、絵を描くこと、びおらの練習、裁縫、読書等。自分はどうやら何かをしたり作ったりしているのが好きらしい。今日もテレビはまったく見ないまま、このブログを書いている。

実際、音楽もただ聴いているのも好きだけれどびおらを奏いている方がもっと好きだ。自分が伝えたいものがあって、そのためにいろいろ工夫したり練習を重ねたりするのは、ひとの披露を傍観させてもらうのとはまったく別種で、ひときわ面白く楽しいことだと思う。

ひょっとしたらそういうひとはたくさんいるのかもしれない、と思う。だって、「同じ阿呆なら踊らにゃ損」と言うではないか。

昨今「試聴者参加型双方向番組」なんていうのがあるのも、そこを狙ってのことに違いない。でも、あれは、参加といっても実際は、マジックショーか何かで選ばれた観客がトランプを一枚ひかせてもらうのと同じで、サクラみたいなものだから、工夫の余地なんか無くて、逆に、番組の出来が思ったようではないものなら、片棒担いだようでひどく具合が悪そうだなぁ、などとこれは余計なお世話でした。(笑)
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by muraom | 2005-05-30 00:48 | みちくさ

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